“積読”供養

溜まってしまった本を整理するため、“積読”に目を通すことにした。その記録。

『エッシャーに魅せられた男たち』

エッシャーに魅せられた男たち 一枚の絵が人生を変えた』 野地秩嘉 著 知恵の森文庫

エッシャーに魅せられた男たち 一枚の絵が人生を変えた (知恵の森文庫)

 この本は、1996年に刊行された『エッシャーが僕らの夢だった』を、2006年に改題、加筆、修正し、文庫化したもの。

 2006年に文庫化したのは、この年の11月11日から翌2007年1月13日まで「スーパーエッシャー展 ある特異な版画家の軌跡」と題された企画展が開催されたからだろう。

 

 正直、改題しない方が良かった気がする。

 なぜなら、日本でエッシャーを広めた功労者として評価されるべき人物のうちの1人は河井藤江という女性だからだ。美術と建築関連の洋書を輸入販売する東光堂に勤めていた彼女が、1965年に目録の中から『The Graphic Work of M. C. Escher』という不思議な版画の載った本に目を止めた。これは売れると直感し、5冊を取り寄せたという。洋書がとてつもなく高価で貴重だった当時としては異例のことだった。

 5冊のうち1冊を購入したのが、イラストレーターの真鍋博氏。

 その真鍋氏からエッシャーの画集を披露されたのが、フリーランスの編集者だった大伴昌司氏。

 大伴氏が、雑誌『少年マガジン』の表紙にエッシャー作品を載せたことで、多くの若者にエッシャーの版画は知られることに繋がった。

 メインの話が甲賀コレクションの甲賀正治氏についてであり、甲賀氏のエッシャーとの出会いは、高校時代のバイト先のバーで知り合った横須賀基地駐屯アメリカ兵を通じてのものだったらしいので、河井氏の仕入れたエッシャーの画集から始まった縁ではないのだが、本の目利きとしてグラフィックデザイナーやイラストレーターの間で評判も高かった彼女の果たした役割は大きかったはずだ。

 

 話の本流ではないが、もう1人印象的な人物が登場する。

 それは、生命科学者の中村桂子氏。

 中村氏は、1972年にヨーロッパに出張した時、パリの街角にある版画展でエッシャーの《空と水Ⅰ》を買ったそうだ。彼女がエッシャーを知ったのは安野光雅氏の作品がきっかけだった。

 実は、自分も、安野光雅氏の絵本の元ネタがエッシャーであるということから興味を持ったので、この本の“男たち”の中に安野光雅の名が入っていなかったことには、少しばかり不満がある。

 中村氏は、職場の執務室に、同じくエッシャー作品の《メタモルフォーゼ(変容)》を飾っていた。

 エッシャーが『メタモルフォーゼ』で表現しているのは外から見た形が次々と変わるということですが、私は生物のDNAが四十億年という時間をかけて何千万の種に変わってゆく壮大なメタモルフォーゼを研究しています。ですからこの作品を眺めていると共感するんです。

 多くの人物が登場する本書の中で、この中村氏の言葉は特に響いた。

 間違いなく、エッシャーと幸福な出逢いをし、人生を共に歩んでいる人の言葉だと感じたのだ。

 

 なんだか文句ばかり書いてしまったが、本書は良書である。

 登場人物は皆、魅力的であり、その一人一人の貴重な言葉を丁寧に記録している。ともすれば金持ちの単なる道楽程度に見られがちなアートコレクションの実際について、日本の美術企画展の摩訶不思議なしくみについても詳しい。

 なぜ、地方の美術館では面白い企画展が巡回してこないのか?

 なぜ、百貨店で美術企画展が開催されるのか?

 なぜ、大規模な展覧会では、必ずといってよいほど新聞社・放送局が協賛に加わっているのか?

 

 2006年に購入してからずっと“積読”にしていたことを、かなり後悔させられたくらい、面白い本だった。